お経とは?由来をどこよりも詳しく僧侶が解説
お経とは、仏教の開祖であるお釈迦様の教えが記されたものになります。
元々は、お釈迦様が弟子や信者に対して、時々に説かれたもので、それを後世の人がまとめました。
ただし、その数は膨大で、歴史的にも複雑な変遷をたどっていることから、一般の方々には非常に分かりにくい状態となっています。
そこで、今回は、
- お経の由来について
- お経が書写されるようになった理由について
- お経の種類について
それぞれ丁寧に解説していきます。
この記事を読み終わったころには、これまでお経について疑問に思われていたことがスッキリと解消されることをお約束します。
目次
お経の由来
お経は、インド語では、「スッタ・スートラ」といいます。
元々は縫い糸を意味し、派生的に「重要なものを一つにまとめたもの」をスッタ・スートラと呼ぶようになり、仏教に取り入れられました。
仏教のお経は、お釈迦様が亡くなった後に、弟子たちによる仏典編纂会議である【結集(けつじゅう)】でまとめられたといわれます。
数百年もの間、師から弟子へと口頭で伝えられていきました。
初期のお経
初期に成立したお経は、口頭で伝承されたことから「アーガマ(伝承されたものを意味する)」と呼ばれ、それをまとめたものは二系統あります。
- ニカーヤ(古代インド語のパーリ語で記されたもの)
- 阿含経(中国で翻訳されたもの)
仏教には、南インドより海上を通ってスリランカやミャンマーなどに伝わった「南伝ルート」と、北インドよりシルクロードを通って中国、日本と伝わった「北伝ルート」があります。
前者に伝わったのが「ニカーヤ」で、後者に伝わったのが「阿含経」となります。
それぞれ異なる伝言ゲームを行ったわけですが、内容的にはかなりの一致を見せており、驚くべき精度で伝承されたことがわかります。
ただし、それぞれ増大や付加の形跡も見え、すべてがそのままお釈迦様の直説とは考えられないのも事実です。
広義のお経と狭義のお経
仏教では、以下の三つをまとめた『三蔵(さんぞう)』というカテゴリーがあります。
- 経蔵(きょうぞう) お経を集めたもの
- 律蔵(りつぞう) 僧団の規則集
- 論蔵(ろんぞう) お経の注釈書を集めたもの
広義では、三蔵すべてを『大蔵経』と呼び、お経とします。
しかし、狭義では、経蔵のなかでも散文で語られたもののみをお経とし、韻文からなるものは偈とするなど区別をします。
お経が書写されるようになった理由
インドでは、伝統的に「暗記」を重視します。
そのため、仏教のお経も当初は、師が口で唱え、それを弟子が暗記するという口頭伝授を繰り返していました。
しかし、紀元前後より書写されるようになり、ガンダーラでは紀元一世紀ごろのお経の写本(現存最古)が見つかっています。
お経が書写するようになった理由は、下記のことが想定されています。
- 文字の発達
- 仏教僧団の生活の変化
- お経を流行らせるため
- お経を保存するため
それぞれ説明していきましょう。
文字の発達
古代インドの文字は、二種類あります。
- ブラーフミ―文字(インド中央で使われていた)
- カロ―シュティー文字(ガンダーラ周辺で使われていた)
それらを用いて記されたものに、紀元前3世紀ごろにインドを統一したマウリヤ朝アショーカ王による「アショーカ王碑文」があります。
インダス文字を除けば、インドに現存する文字資料のうち、最古のものです。
文字の発達にともない、文字への信頼度が向上したことが窺えます。
このような文字の発達とお経の書写には深い関わりがあると指摘されています。
仏教僧団の生活の変化
次に、仏教僧団の生活様式の変化があげられます。
元々、仏教では遊行というように、各地をまわって布教を行い、雨季のみ祇園精舎や竹林精舎などの拠点に留まって修行生活を送っていました。
しかし、アショーカ王による庇護のもとに仏教僧団が発展していくと、安定した経済基盤を得て、それぞれの拠点に定住するようになります。
従前のように、各地を遊行する生活では、膨大な数のお経を書写して持ち歩くことは不可能でしたが、定住化により書写されたお経を維持管理することが可能となりました。
このような生活様式の変化が、お経の書写に影響を及ぼしたと考えられます。
お経を流行らせるため
大乗仏教と呼ばれる東アジアに伝わった仏教に見られる特徴ですが、法華経などのお経には、それを書写して広めることでご利益を得ると記されています。
お経自体にお経を流行させる機能が備わっているということで、実際に多くのお経が書写されたことがわかっています。
このようなお経の書写と仏教の流行は、密接に関わっていると指摘されます。
お経を保存するため
南方に伝わった仏教を代表するスリランカでは、前一世紀に「お経の書写」がはじまったとされます。
スリランカの歴史書は、この時期に十二年に及ぶ大規模な飢饉が発生したことを伝えています。
次々と人々が餓死していくなかで、僧侶たちは仏教の教えを絶やさないために、頭を突き合わせてお経を暗誦し合ったといわれます。
そのような危機からお経の書写が始まったのではないかと推察されています。
お経の種類
仏教は、『八万四千の法門』といわれるように、数多くのお経が存在します。
それらお経たちは、一律に成立したわけではなく、冒頭で紹介したニカーヤ・阿含経を皮切りに段階的に成立しました。
お釈迦様の教えであるはずのお経が、お釈迦様の死後も増え続けたのには、一般には知られていないある理由があります。
お経の成立の順番
お経を大まかに分けると以下のようになります。
- ニカーヤ・阿含経
- 般若経典群
- 法華経
- 浄土経典群
- 華厳経
- 密教経典
最初期に成立したお経は、冒頭でご紹介したお釈迦様として伝承されてきたものを書写したニカーヤ・阿含経となります。
次に成立したのは「空」思想を宣揚した『般若経典群』です。
おそらく、紀元前後に暫時成立したもので、日本で知られる般若心経もこの中に入ります。
そこから五十年から百五十年ほど後に成立したのが、『法華経』です。
宮沢賢治などが信仰したことで知られます。
『法華経』と同時期か、少し遅れて成立したと見られるのが、『浄土経典群』です。
阿弥陀仏への信仰を謳う思想には、イランのゾロアスター教の影響が指摘されています。
三世紀ごろに中央アジアにて『華厳経』が編まれ、ここに記される毘盧遮那仏を造立したのが、東大寺の大仏です。
そして、四世紀、五世紀ごろより、密教が興ります。ヒンドゥー教の影響が色濃く見られ、日本では、真言宗などが知られます。
なぜお経は増えたのか
お釈迦様の教えであるお経が、お釈迦様の死後に続々と成立した理由はなにか。
それには、仏説(お釈迦様が説いたこと)の定義が変更されたことが関わっています。
元々、仏説には『涅槃経』などに見られる以下の定義がありました。
- お経の集成である経蔵に収録されたもの
- 僧侶の規則集である律の集成である律蔵に収録されたもの
仏教の僧侶たちは、目の前に自らの知らない仏説があらわれたときには、上記の定義に照らし合わせて「お経」と「お経でないもの」を判定してきました。
しかし、紀元前一世紀ごろ、当時最大の仏教勢力であった説一切有部は、「お経の伝承過程において、隠没した教えがあり、それを自分たちは瞑想により体得した。」と主張します。
ここから、仮に経蔵にも律蔵にも見られずとも、「法性(仏の教えの性質)に反しない」ものであれば、仏説として認めるという展開が生じました。
この主張は、他の仏教グループも使うようになり、新たなお経が生み出される転機になったと考えられます。
まとめ
この記事では、お経の由来、書写されるようになった理由、お経の種類について、詳しく解説してきました。
仏教徒のなかには、ニカーヤ以外はお経として認めない原理主義の方もいらっしゃいます。
しかし、後世にあらわれた数々のお経を見ていくと、大変豊かな思想が育まれており、それに救われた人々が存在する事実は見逃せません。
【参考】
大乗仏教 ブッダの教えはどこに向かうのか 佐々木閑
初期仏教 ブッダの思想をたどる 馬場紀寿
新アジア仏教史2 佼成出版社
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