お釈迦様とは実在の人物?本名や人柄を僧侶が解説

お釈迦様 アヌルッダ

あなたは、お釈迦様の本名をご存知ですか?

このように問われて、すらすらと答えられる日本人は現代においてほとんどおられないように思います。今日でも日本人の9割は仏教の教義に則った仏式で葬儀を行っているにも関わらず、仏教を創始した人の名前を満足に答えられない状況には僧侶の筆者としては何とも歯がゆい気持ちがします。

それはまるで、パナソニック(旧松下電器)の社員が松下幸之助の名前を知らなかったり、Apple社の社員がスティーブ・ジョブズの名前を知らないようなものかもしれません。

そこで、今回はお釈迦様のお名前をはじめ、出自や人柄などを徹底的に解説します。最後までご覧頂ければ、お釈迦様をグッと身近に感じられるようになるはずです。

お釈迦様は実在したのか

ルンビニー アショーカ王碑文
ルンビニーのアショーカ王碑文 画像素材:PIXSThttps://pixta.jp/

まず、最初に触れておきたいのは、お釈迦様が実在されたのかどうかです。このことは、日本の江戸時代ごろまでは真剣に議論されてきたのですが、今日では実在を疑う人はほとんどいません。それは19世紀にお釈迦様に関わる数々の考古学的な発見があったからです。

日本人の多くは、インドを仏教国と誤解していますが、実際には今も昔もインドはヒンドゥー教の国であり、仏教に至っては13世紀にインドの地で滅亡しました。そこから、仏教はインドの地において完全に忘れ去られていましたが、18,19世紀にイギリスがインドで実権を握り、統治したことで仏教は再発見されます。

アショーカ王碑文

インドに渡ってきたイギリス人をはじめとする西洋の人々たちの中でも、インドの文化に魅了された人々を“オリエンタリスト”と呼びました。彼らの活動により、それまで顧みられることのなかったインドの歴史が明らかになっていきます。

その一つがインド各地に建っている謎の石柱の正体の解明です。現地の人々から「ビーム(巨人)の杖」などと呼ばれ、インド人でも読めない古代文字(ブラフミ―文字・カロ―シュティー文字)が刻まれていましたが、1837年にイギリス人の東洋学者ジェームズ・プリンセプが解読に成功したことから、“アショーカ”という王が石柱を建立して古代文字を刻ませたことがわかったのです。

さらに、解読が進むと、アショーカ王はインドほぼ全土を手中に収めていたことや仏教を信仰していたこと、また、スリランカやギリシャ資料などと突き合わせることでお釈迦様の没後、100年から200年ほど後代の人ということもわかってきました。

そのような中で、1896年に新たな石柱が発見され、そこには下記のことがアショーカ王の言葉として刻まれていました。

  • アショーカ王がこの地を訪れたこと
  • お釈迦様がこの地で生まれたこと
  • ルンビニー村は租税を免除すること

これによって、不明であったお釈迦様生誕の地であるルンビニーの所在地が判明するとともに、お釈迦様が実在の人物である可能性がグッと高まります。なぜなら、100年や200年の間で架空の人物が実在したと誤解されることは考えにくいからです。

ピプラーワ―(ピプラフワ)遺跡の発掘

精力的にインド各地を調査したイギリス人たちは、次々とお釈迦様ゆかりの地(仏跡)を確定させ、残る目玉はお釈迦様が育った町である“カピラヴァットゥ(カピラ城)”の場所を発見することでした。

そんな中で、1898年にイギリスの駐在官であったウィリアム・ペッペが自らの保有していた荘園において、灰となった遺骨の入った骨壺を発掘します。さらに、骨壺には古代文字のブラフミー文字が刻まれ、当時の一流の学者であったリス・デイヴィッズらが解読したところ以下のように読めました。

「これは、釈迦族の仏・世尊の遺骨容器である。名誉ある兄弟、および姉妹・妻子たちの(奉納)である。」

引用:「仏教再発見の旅(佐々木閑)」

この銘文の解読により、骨壺の中の灰はお釈迦様の遺骨(仏舎利)と推定され、お釈迦様の実在を疑う人はほとんどいなくなりました。

また、1970年以降の調査で、発掘された仏舎利容器の周辺から「カピラヴァットゥ」の名が入った印章が多数見つかります。仏典には、お釈迦様の没後に関係のあった部族による仏舎利争奪戦が巻き起こり、カピラヴァトゥを本拠地にした釈迦族にも分けられたことが記されることから、この仏舎利が見つかったピプラーワーこそがカピラヴァットゥではないかと目されるようになりました。

ただし、カピラヴァットゥの候補地はインド領のピプラーワーから直線距離で20kmも離れていない場所にあるミャンマー領のティラウラコットも挙げられており、いまだに決着がついていません。

お釈迦様の出自について

お釈迦様は、今から約2500年前にクシャトリヤ(王族)であった釈迦族(パーリ語sakyaの音写)の王子として誕生したと伝わります。父の名は、スッドーダナ王(漢訳名:浄飯王)、母の名は、マーヤー(漢訳名:摩耶)と伝わりますが、お母さんはお釈迦様を産んで間もなく亡くなってしまったため、その姉妹であったマハーパジャパティーが養母としてお釈迦様を養育したといわれます。

お釈迦様は、このようにクシャトリヤの身分で誕生しましたが、このことはお釈迦様の思想にも強く関わっていると考えられます。

お釈迦様の身分と考え方

インドには、以下のような“ヴァルナ(カースト)”と呼ばれる身分制度があります。

  • バラモン(司祭)
  • クシャトリヤ(王族)
  • ヴァイシャ(庶民)
  • シュードラ(隷属民)

この四つ階級(四姓)のさらに下には、不可触民と呼ばれ、虐げられてきたダリットの人々がいます。

インドは、バラモンを頂点とした世の中となっていたのですが、お釈迦様の生まれたころは商業が発達したことにより、都が栄えます。それにより、都を治めるクシャトリヤが台頭して、それまでのバラモン至上主義に疑問を抱く人が多く出てきた時代でありました。お釈迦様もクシャトリヤ出身であったことからバラモンが無条件に貴いとは考えませんでしたが、だからといって、クシャトリヤが貴いとも考えませんでした。

お釈迦様は、「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる(スッタ・ニパータ)」と仰られたことで知られるように生まれではなく、行為を重視されました。

お釈迦様の名前

日本では、出身民族の名から「お釈迦様」や「釈尊(釈迦牟尼世尊の略)」と呼ばれることが多いですが、お釈迦様の本名は、古代インド語の一種であるパーリ語で以下のように伝わります。

  • ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)※サンスクリット語だとガウタマ・シッダールタ(Gautama Siddhārtha)

姓のゴータマについては初期経典から一貫して見られるものの、名のシッダッタは後代の文献ではじめて見られると指摘されます。また、そのことに加えて、シッダッタは、シッダ(siddha 完成した)とアッタ(attha 目的)という二つの単語が連結したものですが、あまりに出来すぎた名前であることから疑義が呈されています。

近代西欧の仏教学では、ゴータマの姓に“目覚めた者・悟った者”を意味するブッダ(Buddha)を合わせて、「ゴータマ・ブッダ」と呼称されることが一般的です。

日本でよくいわれる“仏(ほとけ)”はブッダを漢訳した「仏陀」に由来しており、“釈迦牟尼”は「釈迦族の聖者」を意味します。また、初期仏典には、他にも様々な呼称が見られ、【如来十号・仏十号】として下記の呼称がまとめられます。

  • 如来(にょらい)
  • 応供(おうぐ)※阿羅漢(あらかん)とも
  • 正遍知(しょうへんち)ーあまねく正しく悟った人
  • 明行足(みょうぎょうそく)ー智慧と行為を具えた人
  • 善逝(ぜんぜい)
  • 世間解(せけんげ)ー世間をよく知った人
  • 無上士(むじょうし)ー最高の人間
  • 調御丈夫(じょうごじょうぶ)ー人を指導するに巧みな者
  • 天人師(てんにんし)ー神々と人間たちの師
  • 仏(ぶつ)※仏陀(ぶっだ)
  • 世尊(せそん)

出典:岩波仏教辞典(第二版)

※実際には、11の称号があるので、経典によっては❻❼、あるいは❼❽が一つにまとめられます。

蛇足ですが、ゴータマのゴーは牛の意味で、英語のcowと発音が似ていることから分かるように、インドの言語とヨーロッパの諸言語とは親戚関係にあります。(イギリスの言語学者ウィリアム・ジョーンズが解明)

お釈迦様のお人柄がうかがえる逸話

アヌルッダ尊者(漢訳名:阿那律)

お経は、お釈迦様が生前に説かれた教えや周囲の人々とのやりとりが口承されてきたもので、紀元前後に成文化されました。

後世には、様々な教えがお釈迦様に仮託されたことで混乱を招きましたが、現在では、いずれが初期に成立したものかが分かるようになっています。それにより、初期に成立したと推定される初期経典を読むことで、お釈迦様のお人柄を窺い知ることができます。

その中でも、今回は筆者の好きなエピソードをいくつかご紹介します。

弟子の針の穴に糸を通す

お釈迦様の弟子には、釈迦族出身の人も少なくありませんでしたが、その中にお釈迦様のいとこにあたる“アヌルッダ(阿那律)”という僧侶がいました。アヌルッダさんは、修行に専念するあまり、目が不自由となったことで知られます。

あるとき、ほつれた衣を縫おうとしましたが、目が不自由であるため、針の孔に糸を通すことができません。途方に暮れたアヌルッダさんはつぶやきます。

「誰か私のために針に糸を通し、功徳を積もうとされる方はいませんか?」

すると、誰やら近づいてきて、

「アヌルッダよ。私が功徳を積ませてもらおう。」

という声が聞こえてきました。その声はまぎれもなく、お釈迦様の声でした。驚いたアヌルッダさんは、

「私は、求道者のなかで、功徳を積んで、幸せを求める者は、私の針の孔に糸を通してくださいと言ったのであって、よもや修行を完成されたお釈迦様にさせるつもりで申し上げたわけではありません。」

恐縮するアヌルッダさんに、お釈迦様は、

「この世において私以上に幸せを求める者などいないだろう。修行を完成しても、それでよいということはない。道を追求することには終わりがないのである。」

このように仰られて、アヌルッダさんに手を差し伸べました。

【増一阿含経31-5収録】

大変、心温まるエピソードであるとともに、「道に終わりはない」という努力を続けることを示す教師としての一面が見えます。

弟子を行く末を案じて

アヌルッダさんと同様に、お釈迦様のいとこにあたる弟子として“アーナンダ(阿難)”さんという僧侶がいました。この方は、お釈迦様より随分と年下であったそうですが、心根がやさしく大変かわいがられ、侍者として長年仕えました。

しかし、そんな性格が仇を為したのか、なかなか悟りに至ることができずに、そのことでストイックなマハーカッサパ(摩訶迦葉)さんとは不和であったことが経典から察されます。お釈迦様は、そんなアーナンダさんの立場を察して、自らの死期が迫ったころ、次のようなことを皆に言って聞かせます。

「修行僧たちよ。過去の世に真人・正しくさとりを開いた人々がいた。それらの尊師たちにも侍り仕えることに専念している侍者たちがいて、譬えば、わたしにとってのアーナンダのごとくであった。」

(中略)

「修行僧たちよ。もしも修行僧の集いが、アーナンダに会うために近づいて行くと、かれらは、会っただけで心が喜ばしくなる。そこで、もしもアーナンダが説法するなら、説法を聞いただけでもかれらは心が喜ばしくなる。またもしもアーナンダが沈黙しているならば、修行僧の集いは、かれを見ていて飽きることが無い。」

※尼僧の集い、在俗信者の集い、在俗信女の集いと置き換えて、同じ言葉が繰り返される

【大般涅槃経収録(ブッダ最後の旅 中村元訳)】

この言葉により、「アーナンダさんが悟っていないからといって軽く見てはならない」と周囲に警告されているようにも思えます。仏典には、このようにお釈迦様が自身亡き後の弟子や信者たちの行く末を案じておられたことが読み取れます。

人ひとりの存在というのは大きなもので、一人が欠けてしまうことでバランスが崩れて諍いが起ってしまうことも珍しくありません。このお釈迦様のご様子は、自身の死期を悟った人間がどうあるべきかを示しているように感じられます。

お釈迦様の晩年というのは決して順風満帆ではありませんでした。自らの後継者と期待していた弟子に先立たれ、出身の釈迦族、故郷は信者の国王により滅ぼされました。それでも、投げやりになることは決してなく、いつも周囲に気を配っておられたご様子が経典には記されます。

さいごに

いかがだったでしょうか。

筆者は、仏教をよりどころに道を歩いている一人で、その教えを学ぶことで日々励まされ、支えられています。そして、それは筆者だけでなく、多くの人にとっても同様のものになると確信しています。今回は、その“取っ掛かり”になればと思い、お釈迦様に関する記事を書きました。

この記事が、あなたにとって善き仏縁となれば幸いです。