お釈迦様の生涯は『仏伝(ぶつでん)』と呼ばれる読み物にまとめられています。

しかし、それは一本だけでなく、時代を経て繰り返し制作され(手塚治虫の漫画『ブッダ』もその一つといえます)、それぞれの仏伝を読むと、必ずしも記述が一致しているわけではありません。

ただ、そこには、それぞれの仏伝の制作当時の時代背景や作者の意図、仏教理解が反映されており、仏伝を読めば、仏教という教えが分かるように作られています。

今回は、その中でも『ジャータカ』というお経に収録される「ニダーナカタ―」という代表的な仏伝を住職が読み解く形でお話しいたします。

客観的に記すことを心掛けますが、住職の仏教観や仏教理解が少なからず反映されたものになりますので、その点についてはご了承ください。

王子の受胎

お釈迦様 受胎

まず、最初はお釈迦様の母であるマーヤー王妃が妊娠するところからお話ししましょう。

あるとき、釈迦族のスッドーダナ王(お釈迦様の父)の后であるマーヤー王妃は夢の中で高貴な象が自らの右脇から胎内に入る夢を見ました。

目覚めた王妃はその事をスッドーダナ王に告げます。

その夢を聞いたスッドーダナ王は王妃の夢が何を意味するのか宮殿に出入りしていた僧侶(仏教ではない)に尋ねたところ、「王妃の胎内にお子が宿ったのです。それはきっと男の子で、在俗の生活を送れば転輪聖王となり、出家すればブッダとなるでしょう。」と予言されます。

象が右脇から胎内に入る夢の意味

インドにおいて夢に白象が現れるのは吉兆を意味し、今日でも、お釈迦様のご生誕を祝う「降誕会(花まつり)」では、白象を模型を飾ったりしますが、それはマーヤー王妃の夢にもとづきます。

また、“右脇”というのも意味があるといわれ、「浄・不浄」という考え方に関係するといわれます。

インドでは、右は清浄(きれいなもの)、左は不浄とされ、日常生活でも左右の手を使い分けます。仏教の開祖となったお釈迦様はもちろん清浄でなければなりませんので、“右”なのだということです。

転輪聖王とは

“転輪聖王”とは古代インドにおける理想的な王のことです。

お釈迦様は、“シャーキャ族(釈迦族)※1”と呼ばれる王族の嫡子でしたが、釈迦族は大国の一つであったコーサラの属国に過ぎませんでした。

スッドーダナ王からすると、息子が転輪聖王になるという未来はこれ以上ないものですが、出家ということとなれば、王位を捨てることになるので何としても避けねばなりません。

※1 Śākya(シャーキャ)。釈迦はその音訳で、釈迦族の“muni(聖者の意)”であるから、“釈迦牟尼”と呼ばれます。

出産

お釈迦様 誕生

臨月となり、マーヤー王妃は大勢の従者をつれて実家に帰省することにします。

その最中にルンビニーという土地で陣痛を起こし、サーラ樹の枝に掴まりながら立ったままで出産しました。

生まれてきたお釈迦様の周りには梵天というヒンドゥー教の源流であるバラモン教の神が控えていましたが、お釈迦様は周囲を見渡して、北に七歩歩まれ、「私は世界の第一人者である。これは最後の生存である。いまや再び生存に入る事はない。」と宣言されます。

天上天下唯我独尊の意味

「私は世界の第一人者~」という台詞は、後に「天上天下唯我独尊~」と漢訳され、生まれたばかりの赤ん坊のお釈迦様が語る有名な言葉となるのですが、様々に解釈されてきました。

ただ、注目すべきは、今回ご紹介している『ニダーナカタ―』より古い仏伝となる『マハーヴァッガ』では、生まれたばかりのお釈迦様が梵天らを前にして述べるのではなく、大人のお釈迦様が悟った直後に出会ったウパカという宗教者に対して、この言葉を述べている点です。

ウパカという人物は、アージーヴィカ教という仏教と同時代に生まれた別の宗教を信仰していたのですが、その彼に対して、仏教の優位性を主張することが、この言葉の元々の意図であって、それが『ニダーナカタ―』に至ると、優位性を主張する相手がアージーヴィカ教よりも巨大で当時の主流であったバラモン教の最高神“梵天”に変更されているのです。

アージーヴィカ教徒のウパカに与えられていた仏教を引き立たせる役目が梵天に移譲されたと見ることができます。

転機

四門出遊

お釈迦様は、青年となり、何一つ不自由なく暮らしていました。

母であるマーヤー王妃は、お釈迦様を産んで七日後に亡くなってしまいましたが、お母さんの姉妹であったマハーパジャパティーが養母として愛情を注いでくれ、父のスッドーダナ王は、お釈迦様に自身の跡を継いで王となることを期待していました。

それだけに、生まれたときになされた予言の一つである出家者となることは是が非でも避けたいと考え、お釈迦様には人生を楽しいものと思ってもらえるように、三つの宮殿を建てて、季節に応じて移り住まわせ、身の回りには若く美しい女性しか置かず、食事も美食しか与えませんでした。

俗世で考え得る幸せをすべてお釈迦様に享受させたのです。

そんなある日のこと、お釈迦様は園遊地に出掛けようと思い、御者とともに出掛けました。

その途中において、生まれて初めて老人を目にして、お釈迦様は何も悪い事をしていないのに自身もやがては老いることを知り、塞ぎこみました。

あくる日は病人、また、あくる日は死人を目にして、ますます塞ぎこむようになりました。

そんな中で、出家者を見て、その佇まいに感銘を受け、出家へと心が傾きます。

四門出遊

この老人、病人、死人、出家者に出会う逸話は、【四門出遊(しもんしゅつゆう)】といって仏教内では大変有名なものです。

ここでは、誰しもに“老・病・死”という苦が訪れることを知らしめながら、出家することでそれらを乗り越えることができるという救いを提示しています。

仏教が何をテーマにしているのかが巧みに表されています。

出家

お釈迦様出家

出家に心惹かれたお釈迦様でしたが、すぐに出家することはせず、結婚をして、子供を授かりました。

そして、29歳のとき、ついに宮殿から抜け出して、多くの出家者が暮らしていた森に赴き、出家をはたします。

森では、アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタという修行者の下で、それぞれ瞑想を教わり極めましたが、悟りには至らずに彼らの下を去りました。

その後、お釈迦様は五人の仲間と共に苦行に励むことになります。

断食をしたり、息を止めて気絶するなど、徹底的に身体を痛めつける過酷なものでしたが、ここでも悟りには至れず、六年の末に苦行を放棄しました。

ラーフラという名前の意味

お釈迦様は、生まれてきた自らの子供に“ラーフラ”と名付けました。

当時のインドでは、日蝕や月蝕は星を食べる悪魔(ラーフ)の仕業と考えられており、ラーフラは「悪魔」を意味します。

何故にそのような名を付けたかは諸説ありますが、「可愛い息子が生まれたことで出家への気持ちが鈍り、障げとなるから」と伝統的には解されることが多いです。ただし、王の血筋をひくラーフラが生まれたおかげで、お釈迦様は王子の身分を捨てて出家することができた側面も指摘されます。

お釈迦様の失敗

出家したあとのお釈迦様は、瞑想に精を出し、苦行にも手を出しますが、いずれも「悟り」には至りませんでした。

これは、明らかにお釈迦様の失敗譚なのですが、普通に考えれば、開祖の伝記には成功譚ばかりを載せるはずで、失敗譚は載せません。

それでも、これら失敗譚が載ったのは、「瞑想だけでは悟れない」「苦行では悟れない」ということを明確にするためで、後世誤った方向に進む人を抑制する狙いがあったと考えられます。

悟りに至る

お釈迦様成道

苦行を放棄したお釈迦様は食物を摂られ、スジャータ―という名の娘が布施してくれた山羊のミルクで作ったお粥を食べて、健康を取り戻します。

五人の仲間たちは、お釈迦様が苦行を放棄したことを「堕落」とみなし、去っていきました。

一人残り、健康になったお釈迦様は菩提樹の下で坐を組まれ、「悟りに至るまでは組んだ両足を解くまい。」という強い決意を持って瞑想されます。

そして、どのようにして苦しみが生じ、滅するのかを観察して、ついにお釈迦様は悟りに至り、ブッダとなられました。

悟りの中身

「悟り」の言葉は広く人口に膾炙していますが、具体的にお釈迦様が何を悟ったのかについては実はいくつかの伝承があります。

・「十二支縁起」説

苦しみが生じる原因を観察すると十二個の要因が連鎖しており、その大元を断てば苦しみが滅するというものです。

スリランカやミャンマーなどの南方仏教国では広く承認されている説になります。

・「三明」説

三種の神通力のことで、それぞれ「宿命明」、「天眼明」、「漏尽明」といいます。

 宿命明は自己と他人の生れる以前の過去世の状態を知る智慧の働きで、 天眼明は自己や他人の未来世の状態を知る智慧の働きで、 漏尽明は煩悩を断じて真理を明らかに知る智慧の働きです。

この他にも説がありますが、いずれにしても「煩悩を断じた」という共通点があります。

梵天勧請(ぼんてんかんじょう)

梵天勧請

悟りに至ったお釈迦様はしばらくの間、その余韻に浸っていました。

そのうち、「自分の得た教えは煩悩を滅するというものであり、世の流れに逆らうものである。人々は欲望を満たすことに喜びを感じており、そのような人々に私の教えは理解できないだろう。理解できないのに説いても徒労に終わるだけだ。」と思い、人々に教えを説くことを躊躇しました。

そのことを知った梵天は、お釈迦様に教えを説き広めるように懇願します。

初めは難色を示されたお釈迦様でしたが、梵天の説得の末、世間にも自分の教えを理解できる者がいることを知り、布教することを宣言します。

なぜ、教えを説く事を躊躇したのか

お釈迦様は、自身の教えの性質をよく理解されていたのだと思います。

極端な話ですが、世の中は“煩悩”によって成り立っています。

例えば、テレビを視聴すれば、頻繁に企業のコマーシャルが流れ、視聴者の購買欲を刺激します。欲という煩悩なくして経済が回る事はありません。

だからこそ、煩悩を滅することを説いた自身の教えを“世の流れに逆らう”と表現されています。

また、ここでもバラモン教の最高神である梵天がお釈迦様に頭を下げるという形で仏教の優位性がアピールされます。

初めての説法

初転法輪

布教を決心したお釈迦様は最初に誰に説くことが最適か思案して、かつて自身に瞑想の手ほどきをしてくれたアーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタの顔が頭に浮かびましたが、両者とも既に亡くなっていました。

そこで、共に苦行に励んだかつての五人の仲間に説くことを思いつき、彼らが居住していたバラナシに向かいます。

遠くにお釈迦様の姿を確認したかつての五人の仲間は、お釈迦様に対して、「王族の出身であるから座席だけは用意してやるが、立ち上がって迎えたり、挨拶を交わしたりなどの客人に対する礼儀は用いないようにしよう」と申し合わせました。

しかし、お釈迦様がその威容を目の当たりにして、みな申し合わせを忘れて、客人に対する礼儀を尽くして出迎えてしまいました。お釈迦様は時間をかけて彼らに教えを説き、そのうちに一人、二人と悟りに至り、やがて五人すべてが悟りに至りました。

彼らは、お釈迦様の弟子となり、お釈迦様をあわせて六人で仏教史上はじめての教団が誕生します。

初めての説法、初転法輪

五人に説かれた教えは、車輪を転がすがごとく教えを広げたという意である『転法輪経(てんぽうりんきょう)』というお経にまとめられています。

『転法輪経』の大まかな内容

・四諦 この世は苦であり、その苦は煩悩を原因とし、煩悩は滅することができ、それには方法があるという教え

・八正道 煩悩を滅するために実践すべき八つの方法が説かれたもの

サンガの成立

仏教の教団組織のことを“サンガ”といいます。

当時のインドには、部族合議制の国家があり、商人たちの組合が作られ、サンガと呼ばれていましたので、お釈迦様はそれらを参考にされたのでしょう。

サンガの拡大

アッサジ サーリプッタ

サンガの成立後、資産家の息子であったヤサやその友人らを信者とし、当時有名な宗教家であったカッサパ三兄弟とその弟子をサンガに迎え入れるなどして、あっという間に大所帯となりました。

そうした中、ラージャガハという都の近くを、最初にお釈迦様の弟子となった五人のうちの一人であるアッサジが歩いていると、二人の宗教者が声をかけてきました。

彼らは、アッサジからお釈迦様の教えである“縁起”について説かれた「諸々の事物は原因より生じる…」という詩を聞いて、たちまち悟りの階梯を上り、お釈迦様の弟子になりました。

この二人の修行者は“サーリプッタ(舎利子・舎利弗)”と“モッガラーナ(目連)”といい、やがてお釈迦様の高弟となり、サンガを支えます。

サーリプッタとモッガラーナ

この二人は、お釈迦様の弟子のなかでも特に優れていたといわれ、サーリプッタはお釈迦様の代わりに説法を務めるほどでした。

しかし、二人ともお釈迦様より早く亡くなってしまい、晩年のお釈迦様がそのことを嘆かれている場面がお経には記されます。モッガラーナに至っては、外教徒から襲われて亡くなったともいわれ、お釈迦様や周囲の人々が決して順風満帆ではなかった様子がうかがえます。

故郷への凱旋

お釈迦様 故郷

ある時、お釈迦様の父であるスッドーダナ王は、自分の息子が悟りに至り、ブッダとなったことを知ります。

我が子への思いを募らせ、ひと目会いたいということで家臣をお釈迦様のもとに向かわせ、招待します。そして、交渉の末、お釈迦様が故郷カピラヴァットゥに二万人の弟子を連れてやってきました。

お釈迦様は、釈迦族の一同に説法し、彼らを喜ばせますが、食事の供養を申し出る者は一人もいませんでしたので、食物を得るために町中を托鉢して周ることにしました。

スッドーダナ王は、王族が食を乞い歩くなど見っともないとお釈迦様に苦言を呈しますが、お釈迦様は、「自らはもう王族の末裔ではなく、ブッダの末裔であり、その伝統に根ざしている」と詩をもって諭しました。それを聞いたスッドーダナ王は、悟りの入り口に入りました。

しばらくの間、お釈迦様はカピラヴァットゥに滞在されましたが、その間、多くの釈迦族の若者を出家させました。

その中には実子であるラーフラ王子もおり、その事に関してはさすがのスッドーダナ王も「今後は両親の許しのない者を勝手に出家させないでほしい。」と苦情を申し入れ、お釈迦様もその願いを聞き入れました。

その後、アナータピンディカ(漢訳名:給孤独長者)により、ジェータ太子(漢訳名:祇陀太子)の土地に僧院が建立され、サンガに寄付されました。

そのことから僧院は“祇樹給孤独園精舎”と名付けられました。

“祇園”の由来

祇樹給孤独園精舎は、仏教史上、竹林精舎に続いて、二番目の精舎で、お寺を意味します。

通称“祇園精舎”と呼ばれ、日本各地にある“祇園”の地名は、ここに由来します。

さいごに

以上が『ニダーナカタ―』に記されるお話です。

お釈迦様は八十歳でお亡くなりになれますが、その最期の旅の様子は『マハーパリニッバーナ経』に記され、岩波文庫より『ブッダ最後の旅』(中村元訳)として翻訳されていますので、ご興味のある方は手に取られて下さい。

【参考:ジャータカ全集1(藤田宏達訳・中村元監修)、ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)】