今後お寺と付き合う方は必見!お布施とは何かを僧侶が解説

ブッダ バーラドヴァ―ジャ

お布施とは僧侶への謝礼ではありません。

あなたは、この言葉を意外に思われたのではないでしょうか。ただ、僧侶として多くの方々と接する筆者の体感でも、お布施を葬儀や法事の際における僧侶の読経への対価、報酬と誤解されている方は非常に多い印象です。

では、お布施が謝礼でないとすると、一体どのような理由があって、僧侶やお寺にお布施をするのでしょうか。

そこには、お布施の信仰や実利、修道の面が深く関わってきます。今回はそれらを解説し、お布施することの意義について明らかにします。

目次

お布施が「お気持ち」なわけ

お布施

次のような経験はないでしょうか。

お寺の僧侶に法事や葬儀で読経をしてもらったため、お布施を納めたい。しかし、相場がわからないため、お寺に問い合わせてみたが「お気持ちで結構です。」と返されてしまった。

金額を明示されないことに、不親切さを感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、このように僧侶が返答するのは、お布施の性質上、やむをえないことなのです。

数あるお経の中でも非常に早い時期に成立したといわれる『スッタ・ニパータ(経集)』には、次のような場面が記されます。

経典に記されるお布施の性質

ある時、お釈迦様が食を得ようと農場経営者のもとに托鉢に訪れると、「他人から恵んでもらうのではなく、あなたも働いて自分で食を得てはどうですか?」と諭されます。

しかし、お釈迦様は「自分にとっては宗教的な実践こそが働くことである」という趣旨を詩でもって答え、労働を拒否します。

忠告を拒まれるも、お釈迦様の美しい詩に感動した農場経営者は、詩の謝礼に乳粥をあげようとしますが、お釈迦様は「詩を唱えた謝礼として乳粥を受け取ることはできない」と乳粥を捨てさせたのでした。

ここで、お釈迦様は、「サービスを提供して、その対価として謝礼、報酬を得ることはしない」と示されています。

もし、日本の僧侶が、葬儀や法事の際にお布施の金額を明示すれば、それは謝礼・報酬と化してしまいます。それでは、上記のお釈迦様の精神に反してしまうために、「お気持ちで結構です。」と答えるのです。

また、お布施は金銭だけを指すわけではありません。貨幣経済が発達していなかった仏教興隆当初は、食事や薬、衣などの日用品がお布施の中心であったことが経典には記されます。

今日でも平時のお寺には檀家の方々から野菜などの食材や花といったものがお裾分けされますが、これも立派なお布施です。

お布施はdonationと語源を共有する

布施 原語

ここで、お布施の原語をみてみます。

お布施は、インド語の“dāna(ダーナ)”を漢訳したもので、「贈与・与えること」を意味します。英語で寄付を意味する「donation」や臓器提供者を意味する「donor」と同じ語源を有することからも、「お布施=寄付」といって差し支えないかと思います。

また、ダーナの漢訳語はお布施のほかに原語の音を写した「檀那(だんな)」があり、日本語で夫を表す「旦那」やお寺のスポンサーである「檀家」はその派生です。

しかし、寄付は寄付でも現代の日本人が考える寄付と異なる部分もあります。それは、仏教の寄付であるお布施はその行いにより徳が積まれ、いずれ何らかの好ましい果報を自らにもたらすと信仰される点であり、仏教国で知られるタイでは今でもその信仰が日常生活に見られます。

タイのタンブン

国民の95パーセント近くが仏教徒であるタイ※では、人々は仏教の「善行は好ましい果報をもたらし、悪行は好ましくない果報をもたらす」という基本的な考えをもとに、将来の幸福のため寄付をすることが日常的に行われます。この寄付行為がお布施であり、タイの言葉では「タンブン」といいます。

お布施の対象は、貧者や公共施設建設なども含まれますが、特に僧侶に対するものが優れていると考えられ、食事や日常生活品、金銭、寺院の建立や修繕費用などがお布施されます。タイの町中では托鉢に訪れた僧侶たちに人々が食事をほどこす光景が見られますが、それはお布施の信仰が生きているからです。

タイにおいて人々は徳を積むために僧侶を必要とし、修行に専念して労働を行わない僧侶は生活を支えてもらうために人々を必要とする。両者はこのような不即不離の関係でつながっています。

※ 2008年国家仏教庁資料参照

お布施は組織が持続することを支援する

先に記したようにお布施する対象は様々ですが、対象の徳の高さにより、もたらされる果報の大きさが異なるとされます。

個人として最も果報をもたらすのは、もちろんお釈迦様ですが、初期の経典である『中部経典(施分別経)』にはお釈迦様よりも「サンガ※」にお布施するほうがより大きな果報をもたらされると説かれます。

なぜ、お釈迦様へのお布施よりサンガへのお布施の方が果報が大きいのか、NPO法人などの団体への寄付に置き換えて説明します。

※ 仏教教団の組織のことで、京都を本拠地にするプロサッカーチームの名前の由来となっていることでも知られます。

お布施は応援の側面もある

筆者は、優れた活動をされているNPO法人などに少額ながら毎年寄付をしているのですが、営利を目的とされていないため、財政の厳しい団体も少なくありません。

どれだけ素晴らしい活動も組織が倒れてしまうと継続することができないため、筆者は活動がこれからも継続できるように組織を応援する気持ちで寄付を行っています。

仏教においてサンガへの寄付が最も果報があると説かれるのも同じです。

お釈迦様がお亡くなりになっても仏教は存続しましたが、組織であるサンガが滅びるとそこに属する僧侶も居なくなり、仏教を伝える僧侶が居なくなれば、仏教も滅びます。そのため、サンガにお布施することは仏教を守ることに直結するのです。

サンガは現代の日本では宗教法人であるお寺に相応しますが、どれだけ立派な教えやお寺、僧侶がいても、それを支援する人々がいなければ立ち行かなくなります。

お布施には、そういうものたちが持続していけるように応援する実利的な意味合いも含まれています。

お布施は「自分」への執着を手放す修行

このように、お布施には様々な側面があるのですが、その本質は「自分への執着を手放す」という修道です。

世間的には、自らの肉体や心を<自分のモノ>と考えますが、お釈迦様は「自分とは、様々な縁により、要素が集まったことで表れている“かりそめの存在”に過ぎず、肉体・心ですらも自分のモノではない。」と考えられました。

ここでいう<自分のモノ>とは「自分の思い通りにできるもの」とお釈迦様は定義されます。

もし、肉体が<自分のモノ>であれば、「私の身体は健康であれ」と命じることで健康を保つはずですが、実際には意に反して病にもなります。そのように自分の思い通りにならないものを<自分のモノ>とは言えないというのがお釈迦様の基本姿勢です。

しかし、現実にはこれらを<自分のモノ>と思いなして執着しているのが私たちの在りようです。それゆえ、生・老・病・死が、自分から時間・若さ・健康・命を奪っていくと錯覚して苦しみを感じます。

では、この苦しみをなくすにはどのようにすればいいでしょうか。それは、奪われるものがない状態をつくればいいのです。自分への執着がなくなれば、それに応じて苦しみも減じていきます。

そのような状態を目指して、僧侶は瞑想や坐禅を行うのですが、その第一歩は物理的に自分のモノを手放すことであり、それがお布施です。

お経を読むと、お釈迦様が初学者に接する際には、必ず最初にお布施について説かれています。そのことはお布施が仏道修行の第一歩になることの証左でしょう。

まとめ

今回は、お布施の性質から、信仰・実利・修道という面を見ていきました。

最後まで読んで頂いたならば、「お布施が謝礼でない」ということが十分にご理解頂けたと思います。

今後、お寺と付き合いのある場合には、ぜひこの記事に書いてあることを思い出してください。そうすれば、お釈迦様の意に沿った本当の意味でのお布施になるはずです。


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