【法話】仏教は、私たちの現状をどのように評価しているのか
皆さんは、ご自身のことをどのように評価されていますか。
結構いけていますか?それとも、あまり自信はありませんか?
多くの場合、人は自らを高く見積もりますので、人前では言えずとも、内心は「そこそこいけている。」と思われていることが多いようです。
では、仏教で私たちの現状をどう評価しているかというと、悟りの階梯に入っていない人のことを「凡夫(ぼんぷ)」と呼ぶことから察せられるように、あまり評価していません。なぜなら、私たちには煩悩を抱える存在だからです。
私たちの抱える煩悩
煩悩の数が、百八つあるというのはご存知の方もおられると思います。
人によって、どの煩悩が強いかは異なりますが、みんな等しく同じ数の煩悩を抱えていて、それが時と場合によって顔を出します。
つまり、このそれぞれの煩悩を見れば、私たちがどのような状況にあるのかが分かるようになっているのです。
今回は、代表的なものを見ていきましょう。
根本となる煩悩は六つあります。
- 無明(むみょう) 真実を理解していないこと
- 貪(とん) 好ましい対象への執着
- 瞋(しん) 好ましくない対象への憎悪
- 慢(まん) 他と比べて思い上がること
- 疑(ぎ) あれかこれか決めかねて迷うこと
- 見(けん) 誤った見解を抱き、執着すること
次に付属的な煩悩が十あります。
- 無慚(むざん) 我ながら恥ずかしいと思わないこと
- 無愧(むぎ) 人に知られて恥ずかしいと思わないこと
- 嫉(しつ) 他人の繁栄をねたむこと
- 慳(けん) 物惜しみすること
- 掉挙(じょうこ) 心が浮足立つこと
- 悪作(あくさ) 悪いことをしなかったことへの後悔
- 惛沈(こんじん) 心が沈むこと
- 睡眠(すいみん) 適切でない眠気
- 忿(ふん) カッとなること
- 覆(ふく) 自分の悪事を隠そうとすること
自らに思い当たる節のあるものばかりではないでしょうか。
しかし、これは一部に過ぎず、まだまだ多くの煩悩があります。このような状態に目を向けると、自分自身が大したものではないと気付かざるを得ません。
愚者と気付くことこそ賢者
自らが大したものではないと気付くのは残念なことですが、それこそが大切だと仏教では考えており、お釈迦様は以下のように説かれます。
もしも、愚か者が自らを愚か者だと考えれば、その者はすなわち賢者である。愚者でありながら、自らを賢者だと思う者こそ愚者だと言われる。
ダンマパダ
自らを過大評価していると、努力する手を休めてしまいますが、自らに厳しい評価を下す人は、努力の手を休めません。だからこそ、お釈迦様はこのように仰られたのでしょう。
謙虚に努めていきたいものです。
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