平戸松浦氏

長寿寺の仏像

薬師三尊仏

貞享二年(1685年)に京仏師忠圓により長寿寺ご本尊として制作されました。眼には水晶がはめ込まれ(玉眼)、美しいご尊顔と精巧な透かし彫りを施された光背から「稀に見る秀作」と称されます。古文書には製作費は本堂改築に合わせて平戸藩より支出されたと記されます。

十一面観音菩薩

十一面観音菩薩坐像

平安時代中期の十一世紀~十二世紀頃に制作されたものと推定されます。元々は、同町柳郷に存在した旧長楽寺の本尊でしたが、明治期の廃寺に伴い、長寿寺に安置されました。伝承によれば、旧長楽寺は建立時、小値賀町の本島より15キロ離れた美良島にあったとされ、豊臣秀吉公の朝鮮出兵の戦勝祈願所として加藤清正公により創建されたといわれます。

秘仏弁才天像(町指定文化財)

南北朝から室町時代頃の制作と推定されます。とぐろを巻いた蛇の上に翁の頭を持つ宇賀神と八臂(現在は一部欠損している)の弁才天が習合した【宇賀弁才天】の姿をしており、十五童子が眷属として従います。長寿寺の開基である平戸松浦氏十六代当主【松浦勝(まつらすぐる)】が格別に信仰したと伝わり、松浦家主君を守護する本尊として歴代当主より燈明料として寺領が寄進されました。秘仏のため、六十年に一度の御開帳です。

地蔵

地蔵菩薩坐像

室町時代(1336~1573年)中期頃の制作で中央仏師の手によるものと推定されます。元々は同町笛吹郷に在した旧延命寺の本尊です。眼は水晶がはめ込まれた玉眼で、右足を曲げ、左足を踏み降ろした姿は【半跏趺坐(はんかふざ)】と呼ばれ、今すぐにでも衆生の救済に向かわんとする地蔵菩薩の性格を表しているように思えます

地蔵菩薩立像

南北朝から室町時代頃の制作と推定されます。元々は同町相津郷に在した地元の豪族、近藤氏が建立した旧西林寺の本尊です。明治期の廃寺に伴い、長寿寺に移されました。

宝物・文化財

大応庵

大応庵(町指定文化財)

松浦勝公により創建されたと伝わり、拝殿と本殿を幣殿で結ぶ神式の権現造風の建築となります。神仏習合時代の貴重な遺物として平成26年に町指定文化財となりました。歴代平戸藩主より再建が繰り返され、本殿は延宝八年(1680)に再建されたもの、拝殿は十八世紀に再建されたものと推定されます。 元は、長寿寺裏山にあったものが明治期に現在地に移されたと記録されます。

松浦棟公肖像画

正徳三年(1714年)に五代平戸藩主【松浦棟(まつらたかし)】公の遺志により寄進されました。松浦棟公は江戸幕府の要職である寺社奉行に任ぜられた平戸藩主きっての出世頭として知られます。賛文は平戸雄香寺、普門寺の住持を務めた大隋祖壁(だいずいそへき)の筆によるもので、「棟公より長寿寺と松浦家の関係を示す後世への証」とすべく寄進するつもりであったが亡くなられてしまったので遺志を継ぎ寄進する」という旨が記されています。

令和二年より平戸城の展示に当肖像画の画像を提供しています。

法華経

松浦義公寄進 法華経八軸

室町時代に平戸松浦氏二十一代当主【松浦義(まつらよろし)】公によって寄進されたと伝わり、巻頭にはそれぞれ義公の署名と花押が記されます。子孫にあたる松浦棟公も長寿寺を訪れた際にこの法華経を見て、大変に感動されたと古文書には記されます。

山号額『廣嚴山』

天保十三年(1842年)、十代平戸藩主【松浦熈(まつらひろむ)】公の筆によるものになります。熈公は能筆家として知られ、平戸八景の一つ『大悲観』を揮毫したことで知られます。

山号とは

日本のお寺には、中国仏教以来の伝統で、「比叡山延暦寺」や「高野山金剛峰寺」というように寺号の前に山号が付されます。

長寿寺の場合は、薬師如来を信仰することの功徳が記される『薬師如来本願功徳経』が説かれた舞台となったインドの古代都市ヴェーサーリーの漢訳名である【廣厳城(こうごんじょう)】より「廣嚴山」と名付けられています。

古文書

長寿寺文書(町指定文化財)

平戸藩歴代藩主より長寿寺に対して寺領を寄進する旨を記す書簡など五十点近くが所蔵されます。

焼締四耳壺

十五~十六世紀頃にタイ国内の窯で焼かれたものと見られ、茶葉の輸入に用いられたと推定されます。長寿寺には、同様の壺が多数遺されており、平戸松浦氏の海外との貿易に関係する遺物と考えられます。

鰐口

六島観音堂鰐口(町指定文化財)

鰐口には、【応永六年(1399年)長寿寺】と銘があり、長崎県内では最古の在銘鰐口と言われます。

一竿鳥居

一竿鳥居(町指定文化財)

一竿鳥居は建立当初に笠木のない貫のみの鳥居であったことがその名の由来といわれており、歴代平戸藩主により繰り返し再建されました。現在のものは寛政七年(1795年)に建立された花崗岩(御影石)製のもので、第九代平戸藩主【松浦清(静山)】公に寄進されました(昭和中ごろの台風により著しく欠損している)。

国司霊廟

松浦勝公霊廟

南北朝から室町時代にかけてのものと推定されます。長寿寺を創建した【松浦勝】公の霊廟です。かつては石碑に『国司興栄公之廟』と見ることができましたが、現在は風化して一部しか読めません。

薩摩堂中世古墳群(町指定文化財)

平戸松浦氏十八代【松浦直】公の霊廟であったかと推定されていますが不明です。現在は倒壊し、墓石が散乱しているのみとなっています。

中世古墳

経崎山板碑群(町指定文化財)

長寿寺の寺領である経崎山にあります。口伝によると、平戸松浦氏十五代当主【松浦定】公の霊廟とされます 。

妙典塔

妙典塔

長寿寺の寺領である経崎山にあります。鯨漁で財を成した小田家当主の重利によって正徳三年(1713年)に建立されました。経崎山は五代平戸藩主【松浦棟】公が弁才天への燈明料として寄進された土地で長寿寺文書によれば、山全体が御神体として、枯草一つ取ってはならないと戒められています。その場に小田家当主が石碑を建立できたのには意味があることでしょう。

三界萬霊

三界萬霊塔

正徳四年(1714年)に建立されたもので、有縁無縁に関わらず一切の諸霊を供養するという性格のものです。伝承によれば、高僧として知られた盤珪永琢の筆によるとされますが、定かではありません。ちなみに、同じ書体のものが平戸市天桂寺の三界萬霊塔でも確認されています。