【コラム】仏教では、人をどのように捉えるのか。

進化論

前回は、仏教世界において、最も善い世界とされる天界についてお話ししました。

今回は、その天界に次ぐ善い世界とされる人界(人道・人趣とも)についてです。

皆さんは、人という存在をどのように捉えておられるでしょうか。

西洋では、「人は神に作られし特別な存在である」と長らく信じられてきました。

しかし、それはダーウィンの登場により、間違いであることがわかります。

例えば、氷河期に一つの集団のなかで体毛の濃い子と薄い子が生まれたら、どちらのほうが生存する確率が高いでしょうか。

それは当然、体毛の濃い子ですね。そして、体毛の濃い子が生き残り、その生き残った人たちで交配すると、次第に体毛の濃い人々の集団ができあがります。

このように「種の集団の中では常に変異が起こり、その変異が生存に有利だった場合、変異は次の世代に引き継がれ、やがて別の種が作られていく」というのが正解でした。

ダーウィンが主張したことはそういうことです。

つまり、進化とはアップグレードされることではなく、種が枝分かれしていくことで、人は偶然の産物に過ぎなかったのです。

では、東洋の仏教では、人をどうように捉えてきたのでしょう。

人は、インドのサンスクリット語で、manusya(マヌシャ)といい、思考を意味するmanas(マナス)に由来します。

思考するから人なのですね。仏教では生物と非生物を思考などの心のはたらきの有無で区分けしますので、その意味で人は生物を代表すると言えます(植物や石は心のはたらきがないので非生物と分類されました)。

しかし、仏教は人が格別に偉いと考えたわけではありません。

すべての生き物は、自らの行為に応じて、天・人・動物などに生まれ変わるとされるように、人はずっと人なわけではなく、行い次第で動物や昆虫にもなり得るのです。

それは仏教が人を動物や昆虫などの他の生き物と並ぶ存在として捉えられていることを意味します。

格が違うというよりも同じ道を歩きながらも前を歩いているか後ろを歩いているかの違いに近いでしょうか。

ただ、人と動物の違いももちろんあり、その一つは善悪の倫理観を持ち、己の利害を脇に置いて、行動できるところです。

これがあるから、私たちは仏道を実践することが可能になります。それゆえ、お釈迦様は「人身受け難し」と人の身に生まれることの有難さを説かれました。

今日において、人以外の生き物や自然に対しての眼差しは以前に比べて随分と良くなりましたが、まだまだ人を中心に据えて世界を眺めています。

しかし、本当は、仏教で考えられるように自然を「器」とし、その中で人や動物が暮らしているというのが真実でしょう。

もっと言うと、人も自然の一部です。そのことを自覚すれば、私たちの振る舞いやあり方は大きく変わるように思います