仏教史

仏教誕生の前夜

紀元前1500年から1000年頃、遊牧民であったアーリヤ民族がインド亜大陸に進出し、長い時間をかけて先住民と混在する形で西北インド、パンジャーブ地方に定着します。

そうしたアーリヤ民族には今日のヒンドゥー教に連なる独自の信仰があり、それを“バラモン教”と呼んでいます。

サンスクリット語とヨーロッパ語は兄弟

その聖典はサンスクリット語という言語によって伝承され、サンスクリット語はギリシャ語、ラテン語、ペルシャ語といったヨーロッパの言語と文法構造、多くの語彙を共有します。

お釈迦様の名もサンスクリット語で“Gautama Siddhārtha(ガウタマ・シッダールタ)”といいますが、“gau”は牛を意味し、英語の“cow”と近似しています。

そのことから分かるように、現在のインドの人々はヨーロッパ系の人々と共通の先祖を持ちます。

四姓制度

アーリヤ民族はインドに定着していく中で、自分たちの伝統的な文化を保持しようと“四姓(カースト)制度”を主張しました。

これは“ヴァルナ”と呼ばれ、肌の色を意味し、自身(アーリヤ民族)と先住民の肌の色の違いを明確に意識されたものとなります。

四姓制度は血統により定まり、上から神々と接触できるバラモン(司祭階級)、王族のクシャトリヤ、商人階級のヴァイシャ、それら上位の人々に奉仕するシュードラの順で、シュードラの名は元々は先住民の一部族の名であったことが示すように、先住民の多くは下位カーストに組み込まれていきました。

上から下にいくほど穢れが増えるとされ、階級の異なる結婚や食事の席を共にすることなどは許されず、仕事も世襲されることが大半というように四姓制度は極めて実効的な作用を持ちます。

さらには、これら四つの階級に入れないダリット(不可触民と呼ばれる)の人々は生活水も自由になりません。

都市化による王族の台頭

最上位のバラモンに権力や富、知識が集約される仕組みが構築されていきましたが、時代が進みにつれて、次第に商業が発達し、いくつもの都市が誕生しました。

仏典には、“十六大国”があったと記されますが、そのような時代にあって、王族が台頭してきます。

そうなると、それまでのバラモン至上主義に疑問を持つ人々が多くなり、都市部にはバラモン教とは異なる思想を持つ宗教家が現れてきました。

そんな彼らを“シュラマナ(漢訳名:沙門、努力する人の意)”と呼び、お釈迦様はそのような時代に王族の子として誕生されたのです。

お釈迦様の誕生

今から遡ること約2500年前、ルンビニーにおいてお釈迦様は誕生されたと伝わります。

ルンビニーの土地は現在のネパール領になるため、現在の国境に準じるならば、お釈迦様はインドではなく、ネパールで誕生されたことになります。

お釈迦様の生没年代

古代インド文化圏においては歴史に対する関心が薄く、ほとんど記録が残っていないため、お釈迦様の誕生年代もいくつか説が提示されていますが、今日まで確定していません。

漢訳やチベット訳仏典に基づいた説 前448~368年

・パーリ語仏典に基づいた説 前566~486年

お釈迦様の出自

お釈迦様は、【釈迦族(sākiya)】の王子として生まれ、出身民族の名からお釈迦様と呼ばれますが、名は古代インド語の一種であるパーリ語で【ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)】と伝承されます。

父である【スッドーダナ(Suddhodana)】釈迦族の王で、母【マーヤー(Māyā)】は王妃でしたがお釈迦様を産んで七日後に亡くなったとされ、マーヤーの妹であった【マハー・パジャーパティー(Mahā-pajāpatī)】が継母となりました。

お釈迦様は王子として何一つ不自由ない生活を送ったとされますが、29歳のときに城を抜け出して出家の道を志しました。

その後、35歳で悟りに至り、「目覚めた人、悟った人」を意味する【ブッダ(Buddha)】と呼ばれるようになります。

ブッダの呼称は当時のインドにおいてはお釈迦様のみは指すわけではなく、諸宗教においても用いられたものでありましたが、後にお釈迦様の固有名詞となります。

教団成立

お釈迦様の功績の一つは優れた組織作りにあるといわれますが、はじまりはたったの六人でした。

律の制定

悟りに至ったあと、お釈迦さまはかつての5人の修行仲間に声を掛け、彼らを弟子とします。

お釈迦様を入れて合計6人で仏教組織は始まりました。

そこから、資産家の息子ヤサやその友人など次々と信者や弟子を獲得していき、教団が拡大していきます。

拡大するにつれて問題も起こるようになりました。そこで問題が起こるたびに規則を制定し、その規則集を「律(vinaya)」といいます。

それよって定められた出家者の生活規則と出家教団の運営方法にもとづき、合議により運営されました。

そして、仏教教団の大きな特徴の一つとして挙げられるのは、教団内における上下関係は出家した順番によるとして、出家前のカーストを持ち込ませないようにしたことです。

仏典編集会議

お釈迦様亡き後の仏教教団はどのように運営していくかは教団指導者を置かなかった仏教にとって大きな問題でした。

第一経集の伝説

お釈迦様は80歳にてお亡くなりになりますが、その後、弟子の一人【マハーカッサパ】主導のもとにラージャガハの地において500人の阿羅漢(悟りの最上位に至った僧侶)が集まって、仏典編集会議が開催されたと伝承されます。

これを“第一結集(だいいちけつじゅう)”といいます。

お釈迦様が生前説かれた教えのパートは従者であった【アーナンダ】により、規則集である律のパートは【ウパーリ】によって誦出され、異論がなければ、それを承認するという形で進んだといいます。

そうしてまとめられたものが今日までの残る“経蔵(教えの集成)”、“律蔵(規則集)”であるとされます。

後世にはそれらの注釈をまとめた“論蔵”も成立し、経蔵・律蔵・論蔵を合わせて“三蔵”となりました。

教団の分裂

俯瞰して見れば、仏教は2500年前から続く組織であり、これだけ長く続く組織はなかなかありません。

しかし、細かい目で見ると、お釈迦様在世の頃より、教団分裂の兆しは見えていました。

例えば、仏教教団では極悪人として語り継がれる【デーヴァダッタ】はお釈迦様に更なる厳しい出家生活を送るべく五つの修行体系の締め付けを要求しましたが拒否されました。

仏典にはそれを発端に教団分裂を企てて、生きながらにして地獄に堕ちたと記されますが、西暦7世紀にインドを旅した玄奘三蔵の旅行記に「デーヴァダッタの教団があった」と記されることから実際には袂を分かったということが考えられます。

ついに勃発した教団の分裂

このようなことはありながらも、お釈迦様の滅後しばらくは仏教教団は一つにまとまっていましたが、約100年後に教団が二つに分裂する事件が起きます。

これを“根本分裂”といいます。

なぜ、分裂したのかについては二種類の伝承があります。

・【十事の非法】による説 これは南方仏教において伝承されている説で、金銀の扱いなど10項目が従来の教団規則(律)に抵触するか否かが争点となり、分裂したというもの。

・【大天の五事】による説 これは北方仏教において伝承された説で、【マハーデーヴァ(漢訳名:大天)】という僧侶が悟りの最高位である阿羅漢の地位を低くする説を唱え、それを支持するグループと支持しないグループとで分裂したというもの。

破僧の定義変更

また、別の角度からみると、この辺りの時期に教団追放を意味する“破僧”の定義が変更されたことが指摘されています。

・変更前の破僧 仏説に背く意見を主張して仲間を募り、独自の教団を作ること

・変更後の破僧 一つの仏教教団の中で別々に集会を行うこと

この破僧の定義が変更されるまでは僧侶同士で仏説に関する見解の相違は許されませんでしたが、変更されたことで見解が異なっても共に集会に参加すれば良いことになり、タガが外れた仏教教団は分裂を繰り返し、その後20ほどのグループに分裂して乱立したと考えられます。

これを“部派仏教”と呼びます。

大乗仏教の登場

今日、中国や日本に伝わる“大乗仏教”はインドにおいてお釈迦様滅後500年ほどに起こった新たな仏教運動です。

その起源は現在でもよく分かっておらず、研究者たちの頭を悩ませています。

大乗仏教はどこからあらわれたのか

お釈迦様の遺骨を祀る仏塔を崇拝する“仏塔信仰”に端を発した“経巻信仰”と深い繋がりを持っており、教理としては“大衆部”というグループと似た思想をいくつも持っていたといわれます。

おそらく、当初は独自の教団を持っていたわけではなく、大乗仏教の僧侶は20ほどに分裂した部派仏教いずれかのグループに属しながら、大乗仏教を奉じていたと思われます。

独自の教団を持つようになるのは4世紀以降のことです。

大乗仏教は少数派

また、よく誤解されることですが、大乗仏教が登場したからといってインドの仏教すべてが大乗仏教になったわけではありません。

むしろ、大乗仏教は少数派です。

しかし、中国に大乗仏教と部派仏教が伝わった際に取捨選択が行われ、大乗仏教が選ばれました。

その結果、中国以東の地域においては大乗仏教が伝わることになりました。

インドにおける仏教のその後

インドにおいて最大の宗教はお釈迦様在世の頃はバラモン教であり、現在はそれに連なるヒンドゥー教であり、仏教というのは少数派となります。

そのような構図において、インドの他宗教との連関の中で仏教の教えも変容していきました。

仏教の衰退

グプタ王朝がヒンドゥー教を支持するなど仏教にとって受難の時代が続き、次第に仏教は力を失っていきます。

中国の玄奘三蔵がインドを訪れた7世紀には既にインドにおいて仏教が廃れていっている様子が描かれており、今日、世界遺産として名高い仏教遺跡のアジャンター石窟寺院は仏教衰退とともに6世紀半ばに放棄され、あれだけの建築物がそれ以後は完全に忘れ去られてしまいました。

再発見されたのはなんと19世紀で、その際には寺院内部がコウモリの糞で埋め尽くされていました。

このような流れの中で、仏教はヒンドゥー教に寄っていき、“密教化”していきます。

その結果、仏教はヒンドゥー教と見分けがつかないようになりアイデンティティを失いました。

そして、13世紀にイスラームの侵攻により仏教寺院が破壊され、インド仏教は滅亡します。

仏教の復興

長らくインドの地において姿を消していた仏教ですが、20世紀においてダリット出身でありながらインド憲法の草案を作成した大学者アンベードカル博士によって仏教徒改宗運動が起こり、ダリットの人々を中心に多くの人々が改宗しました。

今日では日本人僧侶の佐々井秀嶺師にその遺志が継がれ、仏教が再びインドの地で広がっています。