新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、WHOはついにパンデミックを宣言しました。このような事態になるとは多くの人が予想していなかったと思います。感染が話題になり始めた頃、中国では大型連休の春節が始まり、日本にも多くの中国人が来日し、中には、飛行機内まではマスクをしているけれど、日本に着いた途端に、「日本は安全だから。」とマスクを外す方々の様子も報道されていました。ここには、「自分に限っては大丈夫だろう。」という思いが見て取れます。何もこれは中国の方が特別なわけではありません。私たちだって、大事な日に雨でも降れば、「こんな日に限って。」と恨めしく思ったりしますが、これは自分を中心に捉えているから、そのように思うわけで、赤の他人の話であれば、「あなたを中心に世界は回っているわけではないのだから、そんな日もあるでしょう。」でお終いです。でも、そうは思えません。なぜなら、人間は、「自分を中心にして世界を構築し、起こった物事を自らの都合よく解釈する。」ように出来ています。これを仏教では人間が生まれながらに抱えている【無明(むみょう)】という煩悩の仕業だと考えます。無明とは、「明るく無い」と書きますので、暗闇のことです。つまり、自分を中心に眺めているので、まるで暗闇にいるかのごとく、物事を正しく見られていないということです。今回の新型コロナウイルスの感染だってそうです。多くの人が、「自分に限って大丈夫だろう。」と根拠のない自信を持っていますが、それは錯覚です。「自分も感染する可能性がある」ことを自覚しないといけません。
感染した場合、8割の人が軽症で済むとされることから、「騒ぎすぎではないか。」という意見も目にします。事実、インバウンドを失った旅館業や飲食業は窮地に追い込まれています。では、そこまでして日本政府や世界各国は何を守りたいのか。それは、感染すると重症化する可能性が高いとされる残り2割に含まれる高齢者や基礎疾患を抱える人々です。この先、政府は休校措置を解くでしょうし、経済活動も再開させるかもしれません。しかし、若い人々は軽症で済むからといって、好き勝手に行動していいわけではありません。私たちは一人では生きていない。様々な人たちと関わりながら生きています。だから、若者が感染するということは、周囲の高齢者を危険に晒すことに繋がります。だから、感染が収束するまでは慎重な行動が必要です。
また、高齢者や基礎疾患を抱える人々自身も十分に気を付けるべきです。ノーベル生理学・医学賞を受賞された京都大学の山中伸弥教授は自ら開設したコロナウイルスに関するホームページの中で、春の選抜甲子園中止の本当の理由について、このように述べられています。
「もし世の中に高校生しかいなかったら、高校野球も他の競技も中止にはなっていないと思います。高校生は新型コロナウイルスに感染してもほとんどの場合、風邪程度の症状しか出ません。高校野球が中止になったのは、選手の安全はもちろんですが、選手の周囲の高齢者を守り、さらには、感染者が急増して医療や社会が破綻するのを防ぐためです。選手は、周囲や社会のために自分たちの夢を犠牲にしてくれているのです。私たち大人も、彼らを見習って、力を合わせて、国難とも言える状況に対応しなければなりません。」
せっかく、様々なものを犠牲にして守ろうとしている最中、肝心の高齢者や基礎疾患を抱える人たちが気を付けなければ、球児たちも報われないではありませんか。
感染は私たち一人一人に留まるものではありません。みんなで連帯しているという自覚のもとに行動することが感染の収束に繋がるものであると思います。