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和尚のひと言申します。

 
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弓と禅を読んで
2019-11-21
オイゲン・ヘルゲンの「弓と禅」を読了しました。
本書は、哲学を専門とするドイツ人オイゲン・ヘルゲンが東北大学に赴任し、禅に通達した“弓聖”阿波研三に師事した経験をまとめたものになります。大変読み応えのある一冊でしたが、中でも阿波がヘルゲンに対して、「射の離れ」を指導する場面は非常に印象深いものでした。
阿波は、射の離れ(弓を引いて右手を離す)の際に、「矢を素早く射放そうと意欲され、意図的に右手が開いている。無心で射が自然に離れるまで、待たなければなりません。」とヘルゲンに注意します。普通に考えれば、「」が右手を離さない限り、矢は放たれませんので、矛盾した表現に聞こえます。事実、ヘルゲンも「しかし、それを待っていると、いつまでも矢が生じません。」と答えます。それに対して、阿波は、「無我になりなさい。」と指示します。理解できないヘルゲンは、「無我になったら、誰が射るのですか。」と食い下がります。そこで、阿波は、「それが射るのです。」と言い放ちます。(この「それ」とは、おそらく、禅で「無位の真人」や「仏」と表現されるものです)
普通、私たちは自らの意思によって行われる強情的な努力によって物事は成し遂げられると捉えています。しかし、阿波は、そのような作為を手放して無心に行じるところに妙があると説いています。(言うまでもなく、無心に至るまでには「型」に入る鍛練が必要なわけですが)今日の日本では禅にルーツを持つ茶道など様々な道がありますが、禅に通じる道は須らく、そのようになければならないのかもしれないなぁと本を読みながら感じました。
 
本当に子供の為になること。
2019-08-23
お盆のお参りも終わり、ようやく日常が戻ってきました。
今年のお盆では、小さなお子さんも読経中には仏壇の前に座って手を合わせるように促される家庭が少なくありませんでした。今は嫌々でも、それは子供達の習慣になり、子供達が親になったときには、またその子供達に同じように手を合わすように教育する。遠い将来、子供達が仏壇に祀られる側になったときには、きっと多くの子孫が手を合わせてくれるでしょう。
その反対に、手を合わせることを教えてもらわなかった子供達は親になっても我が子に手を合わせるように教えることはないでしょう。その結果、仏壇に祀られる側になっても誰も手を合わせてくれる人はいない状況になってしまいます。
本当に子供の為になることは何か。大人はしっかり考えないといけないように思います。
 
宗教家としての矜持
2019-02-26
先日、ある人と話をしている際に、
「プラクティカル(実践的)に“役に立つ”事のみに金銭を使うのは宗教としていかがなものか。」
と指摘をされて考えさせられてしまった。
もちろん、「役に立つ」事は悪い事ではないのだが、宗教はそこから離れているものである。その一因を挙げると、以前このブログにおいて仏教は労働を禁じている事に触れたが、それを端的に表すエピソードに釈尊が畑仕事を断るというものがある。
 
バーラドヴァ―ジャという者が畑仕事をしている際に、釈尊は托鉢のために畑の脇に立っていた。その姿を見たバーラドヴァ―ジャは、釈尊に働くように促した。しかし、釈尊は、「自分にとって信仰が種であり、苦行が雨であり…」と言って、首を縦に振らなかった。
 
プラクティカルに役に立つ事を考えるのであれば働くべきであろうが、そうではなく、精神世界における活動に宗教家としての矜持があるからこそ、釈尊は首を縦に振らなかった。つまり、譲ることの出来ない一線だったのである。
現在、日本の仏教では間口を広げる事や敷居を下げる事を目的にプラクティカルに役に立つ活動が多く行われている。確かに、プラクティカルに役に立つ事は見えやすく分かり易いので世間の共感を得易いのであるが、それなら宗教は要らない事になり、自身の存在意義を貶めている事になるのではないか。
私自身を含めて、もっと慎重に考えて活動していかないといけない気がした。
 
このくにの善行
2019-01-13
先日、電車に乗って座席に腰かけているとお年寄りの女性が立たれていることに気づきました。そこで、席を譲ろうと声を掛けると、女性は私を一瞥しただけでひと言の礼もなく私が座っていた座席に腰かけられてしまいました。
もちろん、席に座ってもらおうと思って声を掛けたので構わないのですが、何か心にもやもやしたものを抱えたまま残りの電車の時間を過ごすこととなりました。
 
何故、自分がそのような気持ちになったのか振り返ってみると、卑しくも心のどこかで礼を言われることを期待したからに違いありません。勝手に期待して勝手にがっかりしたのです。
禅宗ではそういう気持ちを“計らい”と言って非常に嫌います。
計らいとは計算、打算のことで、言い換えれば、
「目的のために行為すること」もっと分かりやすく言えば、
「何かのために何かを行うこと」です。
 
修行の否定?
今から千二百年ほど前、中国唐の時代に活躍した臨済禅師には生前の言葉を集めた語録「臨済録」という書物が残っています。
 
臨済宗のお坊さんにとってはキリスト教のバイブルのようなものですが、その語録の中で臨済禅師は弟子たちに、
「悟りたいと思って修行するならば、坐禅も読経も教えを学ぶこともすべて地獄行きの業を造っているに過ぎない。」
と厳しく戒めています。
本来であれば、坐禅も読経も教えを学ぶことも仏教では善行として肯定されるものですが、臨済禅師はそれらを切り捨てます。
 
学生時代に初めてこの話を読んだとき、「じゃあ、どうすれば良いの?」と困惑した記憶がありますが、臨済禅師は坐禅などの修行そのものを否定したわけではなく、「悟りたい。」という“計らい”を否定したのです。
 
今日では学校教育においても目的意識を持って行動すること、いわば“計らい”を盛んに奨励していますが臨済禅師はその正反対を行っていることがよく分かります。
 
小学校のようなお屋敷で
私がまだ雲水(禅宗の修行僧)だったころ、分衛(ぶんえい)という托鉢の一種がありました。
雲水4、5人で一つの地区を回り、その地区一軒一軒お宅のインターホンを押してお米かお布施を頂くのですが、私が訪れた家の中に洋風三階建ての豪邸の前に広大な庭を持った、まるで小学校のようなお屋敷がありました。
 
こんなすごい家に住んでいるのはどんな方だろうかと恐る恐るインターホンを押すと中からご婦人が出てこられました。お綺麗な方なのですが、その日は髪の毛はボサボサで顔色もよろしくありません。
 
お札配りに来た趣旨を伝えると、スッと一万円札を差し出されました。
そんな大金をお布施される方は滅多におられませんので内心驚きながら深々と頭を下げますと、その女性が、「お坊さん、私いま主人と離婚訴訟の最中で今日は家庭裁判所に出廷する日なんです。でも、これだけのお布施をしたのですから今日は勝てますよね。」と話されました。私は返す言葉に窮し、頭だけを下げてその場を去りました。
 
その女性がその後どうなったのかは分かりませんが、もしかすると期待通りの事が運ばずに落胆しているかもしれません。このように、どれだけ素晴らしい行いにもそこに“計らい”(期待、見返り、打算)の混ざりものがあると、行いは濁り、落胆を生む可能性があるのです。
 
日本的な善行
世界的数学者の岡潔は六十年近く前のベストセラーである著書「春宵十話」の中で、
 
「このくに(日本)で善行といえば少しも打算を伴わない行為のことである。」
 
と記しています。
これは非常に厳しいことを言っていて、逆説的に言うと打算があれば善行ですらないことになります。私はそこまで厳しくはありませんが、岡の言葉に臨済禅師と同じ匂いを感じて惹かれるものがあります。そんな岡がしばしば言及していた越後の良寛さんには次のような一句があります。
 
『霞立つながき春日に子供らと 手毬つきつつこの日暮らしつ』
(かすみたつ ながきはるひに こどもらと てまりつきつつ このひくらしつ)
 
情景が目に浮かぶような一句です。
春のうららかな一日に子供たちと手毬をついて夢中で遊んでいるうちに一日が終わる。
良寛さんは地位や名誉、権力とは縁遠い生き方をされた方でした。純粋無垢な子供たちが大好きで、いつも衣に手毬を忍ばせていたそうです。別に子供と遊んでいるから何かためになるわけでもありません。
 
むしろ、世間ではそんな暇があれば仕事をしたほうが有意義だと考える人も多いでしょう。しかし、そのように常に目的意識を持った生き方は息が詰まり、窮屈なものとなってしまうように感じます。また、他者と接する中で打算を伴うのは人間関係の希薄な非常に貧しい世の中を生み出します。
 
そうではなく、計らわず(期待も見返りも打算もせず)、ただ、純粋に行動していく。世知辛い今日だからこそ、そのような生き方は私たちを楽にしてくれます。そして、それだけでなく、他者とも気持ちの良い関係が築かれます。子供達にはそんな世の中を歩ませてあげたいものです。
 
合格祈願に思うこと。
2018-11-25
もうすぐ受験シーズンが到来しますが、それに先駆けて長崎市孔子廟において合格祈願が行われた様子がニュースで報道されていました。通常の合格祈願では受験生本人がお参りする姿が多く見られますが、これでは努力の方向性は正しくないように思います。合格するためには祈願するよりも勉強するほうが結果に直結するからです。その点において、孔子廟では受験生ではなく、受験生の親御さんの姿が多く見られたことが紹介され、実に理に適った合格祈願だと膝を打ちました。
日々の私たちの生活においても、方向性の間違った努力が多く潜んでいるのかもしれません。
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