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和尚のひと言申します。

 
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四十九日の線香と生存
2020-06-11
 流行歌などを耳にすると、「一度きりの人生」などというフレーズがよく登場しますが、これに対して、「そんな事間違っている!」なんて声は聞いたことがありませんので、多くの日本人にとっては暗黙の了解を得ていることなのかもしれません。しかし、仏教が生まれたインドやその生活圏である国々で暮らす人々の多くは、「人生は一度きり」とは考えておらず、今日でも「生き物は生まれ変わり死に変わりを繰り返す」と考えていて、これを「輪廻転生」と言います。インドで生まれた仏教もこの考え方を踏襲していますが、ややこしい事に、同じ仏教の中でも死んだら直ぐに新たな生が始まると考えるグループと、次の生に至るまでの準備段階を経てから、次の生が始まると考えるグループがあります。後者のグループの主張する準備段階を、「中有」または、「中陰」といい、これは四十九日の別名としても知られています。つまり、私たち日本人が営んでいる故人の死後、四十九日間は、「生き物は死んでから一定期間を経て、次の生に至る」と考える後者のグループの考え方に由来しているのです。この中有は期間や段階を表しますが、それだけでなく、一つの生存過程でもあります。次の生が人の場合は、中有も人の形態を取りますし、次の生が猫の場合は猫の形態を取ります。(ただし、とても微かなので、常人には見えません)もちろん、食物を取ります。ただ、それは私たちのそれとは違い、「香」になります。だから、四十九日の間は、「線香を絶やしてはならない。」と昔から言ったのです。これだけでは、単なる豆知識で終わってしまいますが、私がこのことを記したのは、中有を主張したグループの考える下記の生存過程(四有)を皆さんにご紹介したかったからです。
  • 中有 死んでから、次の生に至るまでの中間的な生存
  • 生有 誕生の瞬間の生存
  • 本有 誕生の次の瞬間から死ぬ直前までの生存
  • 死有 死ぬ瞬間の生存
 ほとんどの日本人は、「生」が全てであり、「死」は終焉を意味するように捉えていると思いますが、中有を主張したグループにとっては、「生」は、生存過程の一つに過ぎません。春夏秋冬と季節が巡るが如く、我々の生存も巡っていくのです。生だけが全てのように捉えられている現代の日本人にとって、このような考え方を知ることは決して無益ではないように思います。
 
新型コロナウイルスの感染を収束に向かわせるために。
2020-03-21
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、WHOはついにパンデミックを宣言しました。このような事態になるとは多くの人が予想していなかったと思います。感染が話題になり始めた頃、中国では大型連休の春節が始まり、日本にも多くの中国人が来日し、中には、飛行機内まではマスクをしているけれど、日本に着いた途端に、「日本は安全だから。」とマスクを外す方々の様子も報道されていました。ここには、「自分に限っては大丈夫だろう。」という思いが見て取れます。何もこれは中国の方が特別なわけではありません。私たちだって、大事な日に雨でも降れば、「こんな日に限って。」と恨めしく思ったりしますが、これは自分を中心に捉えているから、そのように思うわけで、赤の他人の話であれば、「あなたを中心に世界は回っているわけではないのだから、そんな日もあるでしょう。」でお終いです。でも、そうは思えません。なぜなら、人間は、「自分を中心にして世界を構築し、起こった物事を自らの都合よく解釈する。」ように出来ています。これを仏教では人間が生まれながらに抱えている【無明(むみょう)】という煩悩の仕業だと考えます。無明とは、「明るく無い」と書きますので、暗闇のことです。つまり、自分を中心に眺めているので、まるで暗闇にいるかのごとく、物事を正しく見られていないということです。今回の新型コロナウイルスの感染だってそうです。多くの人が、「自分に限って大丈夫だろう。」と根拠のない自信を持っていますが、それは錯覚です。「自分も感染する可能性がある」ことを自覚しないといけません。
 
 
感染した場合、8割の人が軽症で済むとされることから、「騒ぎすぎではないか。」という意見も目にします。事実、インバウンドを失った旅館業や飲食業は窮地に追い込まれています。では、そこまでして日本政府や世界各国は何を守りたいのか。それは、感染すると重症化する可能性が高いとされる残り2割に含まれる高齢者や基礎疾患を抱える人々です。この先、政府は休校措置を解くでしょうし、経済活動も再開させるかもしれません。しかし、若い人々は軽症で済むからといって、好き勝手に行動していいわけではありません。私たちは一人では生きていない。様々な人たちと関わりながら生きています。だから、若者が感染するということは、周囲の高齢者を危険に晒すことに繋がります。だから、感染が収束するまでは慎重な行動が必要です。
 
また、高齢者や基礎疾患を抱える人々自身も十分に気を付けるべきです。ノーベル生理学・医学賞を受賞された京都大学の山中伸弥教授は自ら開設したコロナウイルスに関するホームページの中で、春の選抜甲子園中止の本当の理由について、このように述べられています。
 
「もし世の中に高校生しかいなかったら、高校野球も他の競技も中止にはなっていないと思います。高校生は新型コロナウイルスに感染してもほとんどの場合、風邪程度の症状しか出ません。高校野球が中止になったのは、選手の安全はもちろんですが、選手の周囲の高齢者を守り、さらには、感染者が急増して医療や社会が破綻するのを防ぐためです。選手は、周囲や社会のために自分たちの夢を犠牲にしてくれているのです。私たち大人も、彼らを見習って、力を合わせて、国難とも言える状況に対応しなければなりません。」
 
せっかく、様々なものを犠牲にして守ろうとしている最中、肝心の高齢者や基礎疾患を抱える人たちが気を付けなければ、球児たちも報われないではありませんか。
感染は私たち一人一人に留まるものではありません。みんなで連帯しているという自覚のもとに行動することが感染の収束に繋がるものであると思います。
 
目に見えるものが全てではない。
2020-01-24
https://note.com/neetbuddhist/n/n326f755919ca
いつも明晰な文章を書かれる二―仏氏らしい説得力のある文章でした。地域や学校の役員決めでも顕著のようですが、自らのリソースを割いてまで人のために何かをする人は今日では稀少です。もし、引き受ける人が居れば、何もかもがその人に回ってしまうような事態も珍しくはありません。そのような世の中なだけに、日本においてはお寺の役員も一種の罰ゲームのように感じている方も少なくはないのかもしれません。
一方、上座部仏教圏の国々(タイやミャンマーなど)ではお寺や僧侶のお世話をすることは、目には見えない「功徳を積む」行為として非常に尊ばれます。上座部仏教圏の人々は生き物は生まれ変わり死に変わりを繰り返す「輪廻」という物語を共有しており、お寺や僧侶のお世話をすることは来世に有利に働くと考えています。日本では「輪廻」思想は「悪い事をしたら地獄に堕ちる」というような道徳レベルでしか捉えられず、定着するには至りませんでしたが、それでも、「徳を積む」という表現が通用しました。それは「目に見えない」ものを人々で共有していたからに他なりません。それを思うと、目に見える成果しか行動の動機にならない現代の日本が不寛容なのも頷けます。
「心の豊かさ」というのは、より多くの人が「目に見えない」ものを共有することで表れるものなのかもしれません。
 
聖なる夜を迎えて
2019-12-26
クリスマスを迎えた日、ある牧師さんがこのような事を仰られていました。
“教会の本分が礼拝であるとしても、クリスマスの時期はいつも思わされる。教会ができることは何なのだろう、と。孤独に季節は関係ないのだが、商店街などが華やかに飾られるほどに、そこに馴染めない人々のことを想うのである。”
このような視点はキリスト教に限らず、宗教者たる者、常に持ち合わせていないといけないものですが、大きな教団や組織に属していると、そこに目が向かなくなってくる側面は否めないように思います。この牧師さんの尊い人格に触れて、慚愧させられた夜になりました。
お寺に出来る事は何だろう。
 
弓と禅を読んで
2019-11-21
オイゲン・ヘルゲンの「弓と禅」を読了しました。
本書は、哲学を専門とするドイツ人オイゲン・ヘルゲンが東北大学に赴任し、禅に通達した“弓聖”阿波研三に師事した経験をまとめたものになります。大変読み応えのある一冊でしたが、中でも阿波がヘルゲンに対して、「射の離れ」を指導する場面は非常に印象深いものでした。
阿波は、射の離れ(弓を引いて右手を離す)の際に、「矢を素早く射放そうと意欲され、意図的に右手が開いている。無心で射が自然に離れるまで、待たなければなりません。」とヘルゲンに注意します。普通に考えれば、「」が右手を離さない限り、矢は放たれませんので、矛盾した表現に聞こえます。事実、ヘルゲンも「しかし、それを待っていると、いつまでも矢が生じません。」と答えます。それに対して、阿波は、「無我になりなさい。」と指示します。理解できないヘルゲンは、「無我になったら、誰が射るのですか。」と食い下がります。そこで、阿波は、「それが射るのです。」と言い放ちます。(この「それ」とは、おそらく、禅で「無位の真人」や「仏」と表現されるものです)
普通、私たちは自らの意思によって行われる強情的な努力によって物事は成し遂げられると捉えています。しかし、阿波は、そのような作為を手放して無心に行じるところに妙があると説いています。(言うまでもなく、無心に至るまでには「型」に入る鍛練が必要なわけですが)今日の日本では禅にルーツを持つ茶道など様々な道がありますが、禅に通じる道は須らく、そのようになければならないのかもしれないなぁと本を読みながら感じました。
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