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和尚のひと言申します。

 
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目に見えるものが全てではない。
2020-01-24
https://note.com/neetbuddhist/n/n326f755919ca
いつも明晰な文章を書かれる二―仏氏らしい説得力のある文章でした。地域や学校の役員決めでも顕著のようですが、自らのリソースを割いてまで人のために何かをする人は今日では稀少です。もし、引き受ける人が居れば、何もかもがその人に回ってしまうような事態も珍しくはありません。そのような世の中なだけに、日本においてはお寺の役員も一種の罰ゲームのように感じている方も少なくはないのかもしれません。
一方、上座部仏教圏の国々(タイやミャンマーなど)ではお寺や僧侶のお世話をすることは、目には見えない「功徳を積む」行為として非常に尊ばれます。上座部仏教圏の人々は生き物は生まれ変わり死に変わりを繰り返す「輪廻」という物語を共有しており、お寺や僧侶のお世話をすることは来世に有利に働くと考えています。日本では「輪廻」思想は「悪い事をしたら地獄に堕ちる」というような道徳レベルでしか捉えられず、定着するには至りませんでしたが、それでも、「徳を積む」という表現が通用しました。それは「目に見えない」ものを人々で共有していたからに他なりません。それを思うと、目に見える成果しか行動の動機にならない現代の日本が不寛容なのも頷けます。
「心の豊かさ」というのは、より多くの人が「目に見えない」ものを共有することで表れるものなのかもしれません。
 
聖なる夜を迎えて
2019-12-26
クリスマスを迎えた日、ある牧師さんがこのような事を仰られていました。
“教会の本分が礼拝であるとしても、クリスマスの時期はいつも思わされる。教会ができることは何なのだろう、と。孤独に季節は関係ないのだが、商店街などが華やかに飾られるほどに、そこに馴染めない人々のことを想うのである。”
このような視点はキリスト教に限らず、宗教者たる者、常に持ち合わせていないといけないものですが、大きな教団や組織に属していると、そこに目が向かなくなってくる側面は否めないように思います。この牧師さんの尊い人格に触れて、慚愧させられた夜になりました。
お寺に出来る事は何だろう。
 
弓と禅を読んで
2019-11-21
オイゲン・ヘルゲンの「弓と禅」を読了しました。
本書は、哲学を専門とするドイツ人オイゲン・ヘルゲンが東北大学に赴任し、禅に通達した“弓聖”阿波研三に師事した経験をまとめたものになります。大変読み応えのある一冊でしたが、中でも阿波がヘルゲンに対して、「射の離れ」を指導する場面は非常に印象深いものでした。
阿波は、射の離れ(弓を引いて右手を離す)の際に、「矢を素早く射放そうと意欲され、意図的に右手が開いている。無心で射が自然に離れるまで、待たなければなりません。」とヘルゲンに注意します。普通に考えれば、「」が右手を離さない限り、矢は放たれませんので、矛盾した表現に聞こえます。事実、ヘルゲンも「しかし、それを待っていると、いつまでも矢が生じません。」と答えます。それに対して、阿波は、「無我になりなさい。」と指示します。理解できないヘルゲンは、「無我になったら、誰が射るのですか。」と食い下がります。そこで、阿波は、「それが射るのです。」と言い放ちます。(この「それ」とは、おそらく、禅で「無位の真人」や「仏」と表現されるものです)
普通、私たちは自らの意思によって行われる強情的な努力によって物事は成し遂げられると捉えています。しかし、阿波は、そのような作為を手放して無心に行じるところに妙があると説いています。(言うまでもなく、無心に至るまでには「型」に入る鍛練が必要なわけですが)今日の日本では禅にルーツを持つ茶道など様々な道がありますが、禅に通じる道は須らく、そのようになければならないのかもしれないなぁと本を読みながら感じました。
 
本当に子供の為になること。
2019-08-23
お盆のお参りも終わり、ようやく日常が戻ってきました。
今年のお盆では、小さなお子さんも読経中には仏壇の前に座って手を合わせるように促される家庭が少なくありませんでした。今は嫌々でも、それは子供達の習慣になり、子供達が親になったときには、またその子供達に同じように手を合わすように教育する。遠い将来、子供達が仏壇に祀られる側になったときには、きっと多くの子孫が手を合わせてくれるでしょう。
その反対に、手を合わせることを教えてもらわなかった子供達は親になっても我が子に手を合わせるように教えることはないでしょう。その結果、仏壇に祀られる側になっても誰も手を合わせてくれる人はいない状況になってしまいます。
本当に子供の為になることは何か。大人はしっかり考えないといけないように思います。
 
宗教家としての矜持
2019-02-26
先日、ある人と話をしている際に、
「プラクティカル(実践的)に“役に立つ”事のみに金銭を使うのは宗教としていかがなものか。」
と指摘をされて考えさせられてしまった。
もちろん、「役に立つ」事は悪い事ではないのだが、宗教はそこから離れているものである。その一因を挙げると、以前このブログにおいて仏教は労働を禁じている事に触れたが、それを端的に表すエピソードに釈尊が畑仕事を断るというものがある。
 
バーラドヴァ―ジャという者が畑仕事をしている際に、釈尊は托鉢のために畑の脇に立っていた。その姿を見たバーラドヴァ―ジャは、釈尊に働くように促した。しかし、釈尊は、「自分にとって信仰が種であり、苦行が雨であり…」と言って、首を縦に振らなかった。
 
プラクティカルに役に立つ事を考えるのであれば働くべきであろうが、そうではなく、精神世界における活動に宗教家としての矜持があるからこそ、釈尊は首を縦に振らなかった。つまり、譲ることの出来ない一線だったのである。
現在、日本の仏教では間口を広げる事や敷居を下げる事を目的にプラクティカルに役に立つ活動が多く行われている。確かに、プラクティカルに役に立つ事は見えやすく分かり易いので世間の共感を得易いのであるが、それなら宗教は要らない事になり、自身の存在意義を貶めている事になるのではないか。
私自身を含めて、もっと慎重に考えて活動していかないといけない気がした。
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